経済学は八卦なのか

2007/1/29朝日新聞9面「小林慶一郎のディベート経済」内で
日銀の独立性と経済学理論との関係について、次のような文が掲載されている。
長いですが、そのまま引用してしまいます。

 中央銀行の金融政策が政府や政治から独立していなければならない理由を、理論的にすっきり解明することは難しい。
 そもそも中央銀行の金融政策は、政府が行うその他の経済政策とどこが違うのか。金融政策の特別な地位はどこに根拠があるのかが、必ずしもはっきりしない。
 マクロ経済学の世界を見ても、金融政策の理論が十分に確立していると言っていいかどうかわからない。
 たとえば、バブル後に日本経済を苦しませたのは銀行システムの機能不全という問題だった。一般の人は、経済学者が金融政策の効果を論じるときに当然、銀行部門の反応を考慮に入れているはずだと思うだろう。
 しかし、金融政策の分析に使われる最近の経済学の理論モデルでは、通常、銀行部門という存在ははじめから省略されている。モデルで考慮されているのは、消費者と企業だけで、銀行はその間にある単なるベールにすぎないとして省かれているのだ。つまり、バブルや不良債権問題といった銀行システムの問題と金融政策との関係は、最初から分析できない枠組みになっている。
 もちろん、金融政策の実務を行っている日銀は、銀行の動向を緻密に分析しながら政策を行っているはずだが、その分析はあくまで実務上の経験則によるもので、経済理論とは小さくない断絶があるわけだ。
 理論の裏付けよりも、むしろ経験則によって金融政策の実務が行われている。なんとも居心地の悪い思いがぬぐえない。これは、中央銀行がつくり出す「貨幣」とは何か、という哲学的な問題に直結しているようにも思われる。
 人類の長い歴史の中で、貨幣が他の商品から独立した特殊な存在になったのと同様に、金融政策の特殊性と独立性も、歴史によってつくり上げられてきた、と言えるのかも知れない。
 劇画化していえば、中央銀行とは貨幣という神に仕える神官のようなものだ。
 経済史家チャールズ・キンドルバーガーの「大不況下の世界」には、第1次世界大戦後の混乱した時代に、世界経済を安定させようとして苦闘する米英仏独の中央銀行総裁たちの姿が描かれている。
 相互の尊敬と信頼によってつながった中央銀行のコミュニティーが、母国の政府や政治家から一定の独立性を保った神秘的なグラフを形成していた様子がありありと伝わってくる。
 中央銀行の独立性は、貨幣や市場経済という存在に対する信頼や畏敬の念が、その国の社会に共有されている度合いを示しているようだ。平時の経済になって我々が取り戻すべきことは、まさにそれではないだろうか。

この話は、どうあがいても経済学では日銀の独立性について理論的に語れない、というものでは、断じてないです。
おそらく、銀行の存在も組み入れたモデルを描くことは
ゲーム理論などを駆使することで、描けないことはないと思います。
その点では、本質的にその成り立ちを説明することが難しい「貨幣」とは一緒くたにできないでしょう。
(ちなみに、貨幣とは何か、というテーマは相当面白く、矛盾なしにその成り立ちを説明することはできない、という説もあります)


それよりもむしろ、そのような理論的枠組みが、そもそも求められていない、ということこそが真相なのではないかと。
経済学には、未来を予測する力は余りありません。
もちろん、比較的、普遍的な法則も存在しますが、市場全体の動きを描く、というレベルでは
過去や現在の事象の記述以上のことをすることは通常ありませんし
逆に、未来の予測モデルだ!といって、常識を打ち破るモデルを提示しても、実務レベルでは見向きもされないはずです。


結局、経済モデルは、政治家の決意を後押しするための道具にしか過ぎないのです。
そういう意味では、ある種、占いと大差ないのではないでしょうか。
小林さんは
「理論の裏付けよりも、むしろ経験則によって金融政策の実務が行われている。なんとも居心地の悪い思いがぬぐえない。」
とおっしゃっていますが、実際のところは「なければないでいいや」程度のものなのではないでしょうか。
前日も話しましたが、「社会学系では記述力>予測力」という束縛、これを「記述力の罠」と呼ぶとしたら
正直、経済学も記述力の罠にはまっていると言わざるを得ません。
この罠を乗り越えない限り、八卦の域を脱するのは難しいと思います。


ガリレオのような学者さえ出てくれば、経済学には乗り越えられるだけのポテンシャルはある、という気はしています。