経済学の記述力と物理学の予測力

うっかり取ってしまっている朝日新聞のbeにあるコーナー
サザエさんをさがして
で、経済評論家に対する皮肉を込めた4コマが紹介されていました。
その記事の中で

エコノミストは信用できるか (文春新書)

エコノミストは信用できるか (文春新書)

という本名を目撃。ちょっと気になるのでメモしておきます。


物理学ではなぜ予測力が重んじられるようになったのか。
まず、工学的用途という側面があるでしょう。
ただ、それ以上に科学という一つの思想が根付いたことの方が大きいように思われます。
工学的な目的だけでは、どうしてもリスクを恐れ、保守的になってしまうので
常識を乗り越えるイノベーションを生み出すのは難しいです。
そして、科学が根付くまでの道のりは、ガリレオが宗教裁判にかけられたように
決して平坦ではなかったわけで、現在の科学思想が確立するために
さまざまな試練を乗り越えてきたわけです。


それに対し、経済学を含めた社会学系の学問は、予測力よりも記述力を重視します。
なぜか?そっちの方が格好が付くからでしょう。
社会学者にとって、他者からの評価こそがステータス。
ガリレオを生み出す土壌がないどころか
ある種、特定のコミュニティの声を代弁することが使命であるかのように振舞っています。
それ自体が悪いというつもりはさらさらないです。
他者の価値観を反映し、世の中にメッセージを投げかけることが目的である以上
そもそも予測力など(本質的には)求めていないということを言いたいのです。


記述力を究極まで高めれば、予測力も備えるはず、というのは建前。
実際には、記述力と予測力はトレードオフの場合が多いです。
社会学では、説得力を重視して一般性を(無自覚に)犠牲にしているケースが多く
悲しいことに、そういう理論の方が直感的にも受け入れやすいものです。
ガリレオの理論が受け入れられなかったように。


ちなみに、「エコノミストは信用できるか」で検索をかけてもう一つ引っかかった本が以下。
奇妙な経済学を語る人びと―エコノミストは信用できるか

奇妙な経済学を語る人びと―エコノミストは信用できるか

出版された時期が近く、比較して呼んでみるのも面白そう。