2chの郡司ペギオ-幸夫スレを拾い読み

2/4追記
このエントリーの内容が礼儀的な意味で大分酷いことを思い知らされたので
修正します。自分の想像力のなさを恥じるしかないです。すいません。
というわけで、このエントリーを読まれる方へ
なぜ、自分がこんなエントリーを書いているかの説明です。


もともと、郡司さんの話は知り合いから聞いたのですが
その中で
「人間、そして生命は科学的なアプローチで記述し尽くすことができない」
という主張には、非常に納得させられたわけですよ。
俗に言う脳の小人問題をもっと普遍的に語っているのが郡司哲学だという認識です。
例えば、「人間にとってのボールペンの使い道」を定める
必要十分なモデルをどれだけ注意深く描いても
人間は必ず、それに反した使い道を見出してしまうでしょう
(こんな例えでどうでしょうか?)。


ただ、ここから科学全般への批判にまで展開するところが理解できてません。
全ての科学モデルは無限退行に陥ってしまうところを
ぐしゃっと潰してしまうことでうやむやにしてしまっているようなのですが
(このぐしゃっと潰す例が、極限を取ってしまうことです、確か)
いくら説明を聞いても、わかったようでわからない。
その腑に落ちない部分をいつか解明してやろうと
時たま、郡司さんの情報を拾い集めている、という次第です。


なんか、語り足りないですがこんなもんで。
以下、2chのスレに適当なコメを書いているだけですのでご注意を。
(追記終了)

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http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1210064910/

1 :考える名無しさん:2008/05/06(火) 18:08:30 0
郡司ペギオ-幸夫の哲学について語るスレです。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%A1%E5%8F%B8%E3%83%9A%E3%82%AE%E3%82%AA%E5%B9%B8%E5%A4%AB

リンクの貼り直し
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%A1%E5%8F%B8%E3%83%9A%E3%82%AE%E3%82%AA%E5%B9%B8%E5%A4%AB

12 :考える名無しさん:2008/05/13(火) 10:48:35 0
ペギオ−って、東北大学理学部を卒業して、神戸大学理学部地球惑星科学科
と自然科学研究科情報メディア科学の教授って事だね。
専攻は理論生命科学。認識論的観測から存在論的観測へその視点を移している
って事だろうな。
まあ、理系的な数学的知識と存在論的視点をミックスしている分、
理系的な知識がないと分かりにくい。もっとも、存在論的と言う哲学を
理系的な頭で捉えるには限界がある気もするが、フェリックス・ガタリ
かなり近い気もするな。
あまりメジャーでないのは、文系にとっては理系的な説明が解りにくい事と、
また、理系にとっては、哲学的な説明が分かりにくい点だろうか?
二つの分野をうまく繋げていない点が、不人気なのだろうかね?

この人は、理系と文系の区別をどう考えているんだろう。
この人の理系というのはおそらく工学系のことを指しているのかな?
理学部系と工学部系がごっちゃになっているのかな?
と推測してみる。

15 :考える名無しさん:2008/05/14(水) 01:09:36 0
ニコニコで動画見れるよ

ニコニコ未加入者のために、動画が見れるリンクをはっときます。
http://d.hatena.ne.jp/opechuman/20080823
面白い動画ですが、これを見てペギオ哲学を理解するのは困難。

22 :考える名無しさん:2008/06/12(木) 23:58:23 0
人工知能学会で発表


5. 論理的(機能的)要請と計算資源的要請が生み出す意識の構造:
郡司ペギオ幸夫
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2008/06/post_565f.html

このリンク先は茂木健一郎氏のブログ。
彼はペギオに一目置きつつ
結局その理論自体はスルーしている人、らしい。
まあ、確かにまともに向き合うにはコストの高い理論ですし。

39 :考える名無しさん:2008/09/21(日) 21:07:06 0
科学的観察における、自己言及性やフレーミングの問題を超越的全体と言う
視点ではなく、ポスト構造主義的他者性や局所としての視点として、
認識論的観測から存在論的観測へ向けた研究をしていると言う事だろう。
その中には数理論も入るし、存在論的に数理論を見出すと言う事だろう。
それにしても、理数系からのドゥルーズなども引用したポスト構造主義
アプローチは面白いテーマだろうね。今後に期待する。

わかんないけど、多分違う気がする。今度知り合いに聞いてみよう。


40 :考える名無しさん:2008/09/21(日) 21:11:17 O
彼の本来の理系の専門と、ここでいわれてる本(哲学)は関係なくない?
理数系からのアプローチ、とは言えないような気がします

こっから、理系論争が続きますが、理系かどうかにこだわること自体が
日本の大学教育の弊害ですな。


60 :考える名無しさん:2008/10/28(火) 09:08:05 0
上のブログ(http://d.hatena.ne.jp/m-hiyama/20081016/1224144089 )や、
http://d.hatena.ne.jp/bonotake/20081020を読んでると、


・哲学と科学との接点の見つけ方の難しさ
・産学の連携の難しさ


を感じますね。


http://d.hatena.ne.jp/bonotake/20081020からの引用なんですけど、
「却って誰も幸せにならない状況を生み出している気が。」
ここにたくさんの問題が集約されている気がします。
実学で生きる上では、「みんなが幸せになれるかどうか」っていう独特の視点が必要に
なるんですよね。科学って本来そういうものなのかな?っていう。
本職の学者の知的好奇心に対して
アカデミアではない人間がどの程度コミットして説得力のある意見が言えるか?
っていうのもありますよね。

この書き込み自体はどうでもよくて、リンク先で言われている
「ペギオの圏論の使い方は正しいのか?」
という問題は気になります。
知り合いによると檜山さんの言っていることは
的が外れているらしいのですが、詳細を聞いていないので。
正直、檜山さんのエントリーを見る限りでは
言っていることに間違いがあるようには思えないんですよね。
自分も郡司さんのモデルの立て方おかしくないか?と思ったクチなので。
ただ、郡司さんの圏論モデルの是非を問えるほど圏論に詳しくないのと
圏論に基づいたシミュレーションの結果自体は面白かったので
圏論について勉強したら、もう一度考え直す価値はあると思ってます。


ちなみに、リンク先でたけをさんが
ペギオ哲学を「科学と認めたくない」と言ってますが
科学の限界をえぐり出そうとするペギオ哲学に対して
その物言いはナンセンス、なはず
(追記:本人は反科学として論じているので科学と認めたくないという
物言いは噛み合ってないかな、というだけです)。

72 :考える名無しさん:2008/10/31(金) 17:45:39 0
「原生計算と存在論的観測」東京大学出版会は入手できたのか?
誰か読んだやつはいるのかね?
とうとう、東大が乗り出したと言う事で、郡司さんも元気が出るだろう。
大澤さんあたりが絶賛しているらしいが、本当に分かるように書いてあるのかね。
でも、存在論的観測であれば、観測結果は多様にならざるを得ず、
真理を探究する科学ではありえない事にもなる。いわゆるフラクタル
ばらつきを見出す事にしかならんだろう?


74 :考える名無しさん:2008/10/31(金) 18:01:53 0
ペギオはドゥルーズを読んでおるので、理論的な唯一の真理を
探究しようとはしていない事はわかるが、それを強引に観測
理論に持ち込むことが可能とは思われないがね。


78 :考える名無しさん:2008/11/01(土) 17:32:29 0
局所からの観測は局所毎の結果を招き、原理として還元出来ない。
つまり、演繹不可能である事を、理論化すると言う事は、
多極的視点を超越する唯一の視点が要請されるのであり、大数の法則の様に
蓋然性の理論になっちゃうだろう。それって、意味あるのかね。
ドゥルーズの逃走・生成を科学的な観測視点に持ち込んでもしょうがないだろう。
ドゥルーズの生成は観測すると言う真理探究自体を否定しているのだしね。


79 :考える名無しさん:2008/11/01(土) 17:38:33 0
>>78
それはペギオも承知の上だろう。
しかし観測せざるを得ないからね、実際問題としては。
むしろペギオのように矛盾は矛盾として出て来た方がいいだろう。
問題はどこまで徹底できるかだよ、撤退せずにね。

このあたりは(自分の理解における)ペギオ哲学の本質に近い話なのでは。
ただ、78の「蓋然性の理論になっちゃう」というのは間違っていて
「蓋然性」という概念すら、持ち込んでしまうと誤謬になるという考えかと。


82 :考える名無しさん:2008/11/05(水) 18:22:35 0
とりあえず、


・セルオートマトン(http://en.wikipedia.org/wiki/Cellular_automaton)
ハイティング代数(http://en.wikipedia.org/wiki/Heyting_algebra)
・トポス(http://en.wikipedia.org/wiki/Topos


勉強しようかな。


83 :考える名無しさん:2008/11/05(水) 18:23:49 0
その前の、準備に有限決定性オートマトンブール代数圏論は理解した方がいいかもな。


84 :考える名無しさん:2008/11/05(水) 21:17:43 0
ブール代数圏論は必要だが
有限決定性オートマトンはいらないよ。
セルオートマトンの方が一般に簡単。


85 :考える名無しさん:2008/11/06(木) 14:02:35 0
>>83
そうなんですね。セルオートマトン勉強してみます。


86 :考える名無しさん:2008/11/06(木) 14:03:52 0
Stephen Wolframの仕事と、郡司ペギオ幸夫の仕事は関係するのかもな。

Stephen Wolfram
http://www.informatik.uni-trier.de/~ley/db/indices/a-tree/w/Wolfram:Stephen.html


89 :考える名無しさん:2008/11/07(金) 15:42:30 0
集合・位相と束論はとりあえず勉強しとこう。
他の哲学勉強するときにも役に立つから。


・様相論理と位相束との関係
・様相論理と圏論との関係
とか、そういう切り口で勉強してみるといいかもしれない。


参考URI
1. スティーブ・アウディ, 岸田功平, 位相と様相, http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/56973

ペギオを理解する上で勉強すべき分野の紹介。
個人的に89に対して興味津津。
ただ、セルオートマトンを勉強するのはちょっと違う気がする。
批判対象として勉強するというのなら、わかります。


90 :考える名無しさん:2008/11/08(土) 23:55:00 O
郡司先生の研究室中退です。別に読み解くのに難しい理論は特に必要なくて、根底に流れている物を感じ取れるセンスが必要かと。
ただの哲学理論で終わっていないんです。まあそれを読み取るセンスがあれば、本来あるべき姿がわかるというか。


91 :考える名無しさん:2008/11/09(日) 09:28:19 0
いや、それだと整合性があるのか、何気に脇が甘くないか考えることが停止するだろ。
センスが無くていいとはいわんが、センスだけでいい、みたいなことを言うと、
かえっていろんなものが停滞すると思う

91に同意。90のいわんとすることもわからないではないですが。


102 :考える名無しさん:2008/11/10(月) 18:37:07 0
http://www.research.kobe-u.ac.jp/fsci-nonlinear/gunji/より引用


郡司氏の問い
「”生命と物質の違いは何か”とは如何なる問いか.
そして,我々はその問いに対して,如何なる答え方を用意すべきか」


まず、問いに対する問いがあって入れ子になってるんですよね。
これが、郡司氏を読み解く際の難しさの一つではないかと思います。


また、「如何なる答え方を用意すべきか」という問いから
答えが無尽蔵に存在することを示唆しています。


ポスト郡司氏っていうのは、この段階をさらに超えなければならないから
ものすごい大変なんだろうなあとか思いました。

自分も大変そうだなあ、って思います。知り合いも嘆いてました。


114 :考える名無しさん:2008/11/13(木) 19:26:37 0
>>111
例えば、関数の定義域にその関数自身が含まれるようなものを考えたとき、その
定義域を集合とみなすとラッセルのパラドックスと同じパラドックスが発生する。
でも実際には、対象領域にある性質を持つ位相を導入すると、パラドックス
発生しなくなる。言い換えれば、対象領域が単なる集合よりも豊かな構造を
持っていると仮定して、ラッセルのパラドックスを解決している。


そういう個別ケースを挙げていけばいいの?


> 同じクラスにそのクラスの名称ははいるのか?
そもそも、クラスの定義に反するから入らないのは当たり前。

115 :114:2008/11/13(木) 19:38:38 0
解決じゃないな、回避したと言うべきか。


>これは、解決不可能であろう。
本質的にはそう。で、そうわかったことが解決なの。


ペギオにしても、ラッセルやゲーデルに言及したがる文系にしても、ものすごく
悲観的にラッセルのパラドックス不完全性定理を捉えてるんだよね。(ペギオ
はわざとそう喧伝してる風があるけど)


当の理系はもっと楽観的だよ。そりゃヒルベルトあたりは悲観したかもしれないが、
不完全性定理にしても、実際はそんなに厳しい制約でもないし、限界が見えたというより、
できることとできない事を見定める事ができるようになった、くらいの捉え方でいる。


自己言及の構造は、たとえばローヴェルの不動点定理からも明らかなように、不動点の存在
の可否とほぼ同値で捉えられるんだけど、物理やら計算機科学やら、不動点使いまくりですよ。
一般に不動点が存在しなくなる場合もあるが、かなりのケースで存在するし、不動点が存在すると
一旦証明された場合には必ず存在するので、そんなに困らない。
ある種の原理的な決定論者には嫌かもしれないが、実利的なほとんどの理系は「そんなもんだよね」
でおしまい。

科学者にとってはペギオ哲学が正しかろうと正しくなかろうと
自分の現在のアプローチを捨て去る必要はないし
捨て去ってしまうと立ち止まることしかできない。
実際、インターネットは使えるし
人工衛星と地球間の時間調整はうまくいっているし
ロケットは飛んでるので。
ペギオ哲学の意義は、科学者にとっては掴みにくいものです。


116 :考える名無しさん:2008/11/14(金) 14:55:43 0
どうして、不動点が証明出来るのだろうかね。
文系の哲学から見ると、不完全性定理ハイゼンベルク不確定性原理
(位置と質量の不確実性)の問題を解決しないで、不動点は見えてこない
きがするな。例えば、不動点と言ったら、古典主義的ロジックの
ニュートン力学でしょう。これはアインシュタインによって、相対的な
視点しかない事になるわけで。
それよりも文系から見た根本的問題点として、この問題は絶対視点の不可能
性=相対主義と見えるんだよね。これは、デカルト的な「自我=我」の証明
不可能に繋がっている問題な訳だよ。つまり、私の存在証明(コギト)に
よって、まず、私の存在が証明され、その私に現前するものの運動を私が
証明するように「ある」事を、神の存在証明にからめて、証明したのであり、
つまり、目の前にある物質世界は見えるようにあり、その運動は演繹的に
(数式で)捉えられるとしているのだよ。
つまり、このことは、我の証明(この場合観する「私」の証明)は
絶対的に静止視点=不動視点としてある事の証明でもある。
ところが、不完全性定理のようなものが反証出来ないとなると、
「我」の絶対的な視点も消滅せざるを得ないのだよ。
だから、不完全性定理不確定性原理を反証せずに、簡単に不動点
持ち込めないと言う事が言いたいのだよ。

ここから文系 vs 理系の熱い戦いが始まるのですが
流石に夜更かしし過ぎてやばいので、残りは後日。