2chの郡司ペギオ-幸夫スレを拾い読み2

http://d.hatena.ne.jp/opechuman/20100201
の続き。


昨日はまさかのコメントを頂いてびっくりしたのですが
コメントを頂けることはありがたいことなので
今後は、コメントをもらうに値するペギオエントリーを書いていきたいです。
今回のはチラ裏ですが(笑)


で、116さんの「不動点がないんだから科学なんて成立しないんじゃ(大意)」
から始まる、文系 vs 理系の戦い。

121 :考える名無しさん:2008/11/15(土) 09:49:41 0
まぁその、アナロジーてんこ盛りの議論に理系は沈黙せざるを得ない訳だが。


とか言いつつ書くけどお前、どこにでも不動点があるか、どこにもないかの二択だと思ってない?
ゲーデルも誰も、そんな事はいっとらんよ。
不動点てのは、あったりなかったりするもんなの。ペギオも大好きなローヴェルの不動点定理は、
まさにそれを示したものなの。


ちなみに、この定理は計算機上で実現できる。不動点演算子とかYコンビネータとか呼ばれる。
プログラム書ける奴はPCで直接動かしてみるといい(詳細はググれ)。この不動点演算子に適当な
関数を適用してやると、不動点があるときは不動点を計算して返してくれる。ないときは、無限
ループして計算が止まらない。いわゆる無限退行(笑)ってやつだ。


とりあえず>>120は、そのへんのカラクリを非ペギオ・非哲学なテキストで勉強しなおした方がいい。


ゲーデルに関して、少し追記しとく。


ゲーデルの第一不完全性定理において、不動点とは証明可能な命題のこと。(証明が肯定的か否定的かは問わない)
ゲーデルが示したのは、不動点が存在しないケース=証明不能な命題の存在について。
でも当たり前だが、これは証明不能な命題の蓋然性を示しただけで、全ての命題が証明不能になった
のではない。証明可能かどうかは命題ごとに定まる。
文系が不完全性定理を引用して「1+1=2すら真理ではなくなった」とかアホなことを書いてる
のをよく見かけるが、完全な誤り。


もう一つ、よく文系が見逃す点だが、第一不完全性定理は「帰納的に記述できる公理系」について
の定理。これは誤解を恐れずに書けば、「自己言及可能な公理系」と読み替えてもよい。
なので、自己言及できない公理系でなら、全ての命題を決定可能にできる。(そういう体系を作れる)
そんなの意味あんのか、と思うかもしれないが、そんな狭い宇宙でも語れる事は沢山あるし、何もかも
証明可能というのは魅力が高いので、論理学では割とよく使われる。


で、第一不完全性定理は数学自身を対象にしたメタ数学の定理なんだが、そのメタ数学内の命題を
第一定理を使って証明したのが第二不完全性定理。だから第二定理はメタメタ数学の定理で、これの
意味を語るのはまた別の話。


124 :考える名無しさん:2008/11/15(土) 15:24:07 0
116の言うデカルトの存在証明からの主体としての客観的観察の可能性(不可能性)
についてはどう考えるのだろうね?
つまり、証明可能な場合と不可能な場合があると言っているけど、
その前段として、そのように言う「私」をどの様に証明するのか
と言う問題が、その前段であると言う事にならないかい?
そこから派生する問題として、数学・論理学的証明は、その数学と論理学の
証明方法に依存して、証明されているのではないかと言う問題が
前段としてあるのではないかと言う事だ。たとえば、簡単な例で1+1=2
だと言う決まりが先にあって、そこから、その中で論理的に矛盾がないような
証明をしているのであり、この前段メタ数学(数学の+記号の意味と
理解の多様性)を問い直せば、形式的にも矛盾が現れたのがクリプキクワス算でしょう。
つまり矛盾点は2つある。1)既存の数学のルールを守っても、無限の数の
組み合わせはあるともないとも証明不可能と言う点
2)クワス算に見られるように、数学の式の意味は恣意的に決められており
色々な解釈が可能である事。
以上から、数学を世界を客観的にはかるツールともはや見る事は出来ない。
しいて言えば、便利な物差しではあるが、その物差しには計れないものがあり
(それはこの物差し自体の事)その時は、異なる物差しに作りかえる必要がある。
ただし、その物差しはどのような基準で、誰が作るのか?
それは、誰でも良いが、提案し、皆の(特に数学の専門家)の承認・合意
によるのだと言う事だろう。その新たな物差しも、常に実践して不具合
が生じると、また替えられるって事だろうね。
つまり、数学は何ら客観的な証明をしているのではなく、前提となった
決まり(+・−・X・÷etc)と言う、恣意的記号の強制によって
形式的に無矛盾を証明し様としているに過ぎない、自己満足だと言う事。

事実認識の正しさという観点で言えば理系の圧勝なんですが
ペギオ哲学はまるで鬼の首を取ったかのように
ゲーデル不完全性定理を引用して
科学批判をしている類のものではないと思うので
この議論はペギオうんぬん以前の問題。


ただ、恥を恐れずコメントしてくれる文系の方は貴重だと思います。


126 :考える名無しさん:2008/11/15(土) 16:30:17 0
>>125
とりあえず、ウィキペディアからソースとってくるのは止めたほうがよいかもしれません。
自分の勉強になりにくいです。分かった気にはなれますが。
原典当たった方がいいですよ。
Shashkin, Yu. A. Fixed Points. Providence, RI: Amer. Math. Soc., 1991.
とか。
で、資料が探しきれなかったり、その資料を読んでも読みこなせそうならば
その分野に言及しない方が自分のためにも他人のためにも幸せかもしれません。

原点当たるかもしれないのでメモ。


125 :考える名無しさん:2008/11/15(土) 15:54:48 0
ウィキペディアで見ると、不動点と言うのは、まずある位置にいる
そこからある展開によっても、移動しない部分を指しているのよね?
それならば、最初のある位置ってどの位置ってのが問われていない
でしょう。つまり、最初に観測者のいる観測する位置は、「そこ」
でしかなく。すべての観測する最初の位置は移動しなければ「不動点
としている訳でしょう。これって、レヴィナスのイリアでしょうね。
しかし、どのような観測位置も運動する相対的な位置に過ぎないのは
宇宙のどの位置も他の天体から相対的に移動しているのだからね。
地球の自転によっても、太陽に対する公転による位置のヅレも
常にあるので、絶対的な静止位置は空想の産物に過ぎないのでは
ないでしょうか。


129 :考える名無しさん:2008/11/15(土) 17:57:07 0
とりあえず、突っ込むの簡単なほうから。
>>125
不動点=不動視点ってお前が勝手に言ってるだけで、俺は一言もそんなこと
言ってないんだけど。
不動点ってのは、いろいろあるけど普通は、適当に規則が与えられた2点が
重なりあう点のことを言う。それ自身が動いてるかどうかは関係ない。
合体ロボの上半身と下半身が合体したとき、合体ロボに乗ってるやつにとっても
外から合体ロボを眺めてる奴にとっても、合体した事実に変わりはない。


130 :考える名無しさん:2008/11/15(土) 18:36:22 0
>>127(注:125のことです)
いい線いってるところもある。決定的に間違ってるところもあるけど。
確かに、現代の数学は我々のいる世界とは無関係。それは不完全性定理のせいではなく、ゲーデル
その他による数学基礎論(メタ数学)が発展して、数学が一旦再整理されたから。それまでの、
自然法則から何となく採用していた素朴な公理を、全部人間が人工的に与えた公理に差し替えて
しまった。その時点で、数学は物理と袂を分かって、もはや自然科学ではなくなった。んで、我々の
住む世界について数学者は直接コミットしなくなった。


> 2)クワス算に見られるように、数学の式の意味は恣意的に決められており
> 色々な解釈が可能である事。


クワス算はよく知らん(し、恐らく>>127(注:125のことです)は何か誤解している)のだが、主旨は正しい。数式をどう
解釈するかについて数学自身はコミットしない。どういう解釈を与えるか、与えた解釈が正しいかは、
数学を採用した自然科学者(例えば物理学者)の側の責任になる。


でも、元々物理法則ってそういうもんでしょ。普通物理学というのは、誰かが理論的に仮定した定理
(この時点では仮説)を、実験を通じて実証する事によって成り立っている。それは、数学世界と我々の
住む自然世界との間で常に整合性をとる作業に他ならない。物理はそうやって整合性を与え続ける事で、
自分達が構築した数学的証明と、それに与えた解釈が間違っていない事の双方を保証し続けている。
これは、アインシュタインとか不確定性原理とか以前に、物理学なり自然科学がずっととり続けていた手法。
なので、実はゲーデルやらの仕事が数学以外に与えた悪い影響というのはそんなにない。


途中だが、ちょっと洗濯物干してくる。


132 :130:2008/11/15(土) 19:05:27 0
続き。あとは、数学の側がものさしとして妥当かという話になる。これにはゲーデルの第二定理が
関わってくるんだが、現在殆どの数学で採用しているZF公理系・ZFC公理系については、恐らく無矛盾
だろう、と思われている。もちろん直接証明はできない。無矛盾な体系の中では無矛盾である事を
証明できないんだけど、矛盾する体系の中では矛盾を証明できる。で、今のところさしたる矛盾も
見つかってないので、それが無矛盾であることの傍証になってる。
その他色々で、物証はない(し、今後出てくる事もない)けど、状況証拠は揃いつつある状態。


まぁ言えるのは、数学の体系の正しさは決定論的なものから、物理の体系と同様、実証主義で経験的・
確率論的なものにシフトしたってこと。
(以下略)

ペギオ哲学が批判の対象としているのは
ここでいう「実証主義で経験的・確率的なもの」としての科学でしょう。
「整合性を与え続ける」ことが
「自分達が構築した数学的証明と、それに与えた解釈が間違っていない事の双方を保証し続けている」ことになるのか、という問いだと思います。


134 :考える名無しさん:2008/11/16(日) 07:49:21 0
ごめん、>>132のメタな系の説明、嘘言ってるかも。
別のことを同時に考えてたせいで、それとごっちゃになってしまってる。ちょっと恥ずかしい。
なので、そこの部分は後で書き直すかもしれないけど、とりあえず撤回しとく。代わりにクワス算を
ざっと調べた。これであってるのかな。


 1+1=2 16+21=37 というような一群の計算過程が示されている.そこである人が,
 68+57=5 という.これは間違いか.この計算は,xプラスyが57以上なら,答えが
 5 になる「クワス」という新しい演算子だ,と主張された場合,これを間違いで
 あるということはできない,とクリプキは言う.


http://cambrian.jp/anzai/files/poetic-engineering02.pdf より引用した。
これがあってる前提で話を進めるが、これは俺からすると、人間が自然に行う帰納的推論が誤謬を生む
という事例の話。物理学なんかはこの性質を受け継いでいて、自然の斉一性を前提に法則を外延的に
適用しようとする。地球上の物理法則が、1千万年光年の彼方にある惑星でも成り立つか?というのと
同じような問いだと思う。


で、数学に閉じた話で言うと、こういうことは、逆に今はなくなったんよ。
>>130で述べたような数学の再整理によって、数学の公理は完全に明示化されることとなったので。
公理が未定義で適用できない事例については、勝手に想像で外延するような事はできない。
もしy≧57で+の定義が加算なのかクワス算なのか、公理で予め与えられてないのなら、68+57の結果は
未定義となる。125も5も不正解。

至極まっとうな意見ですよね。
これに対し、これまでの方とは違う文系の方が反論します。


135 :考える名無しさん:2008/11/16(日) 10:23:52 0
理系ではないので、詳細なコメントは差し控えるが、
要は、反証可能性として、数学もあると言う事でしょう。
だとすると、公理とは証明できないもの、いわゆる、カントの物自体
のようなものを前提にしている事になるよね。
だから、帰納法的なアプローチしかできない。
ところが数学と言うのは、演繹的なものでなければ、本来はいけない。
つまり、間違ったから替えちゃう見たいには出来ない学問なのでしょう。
哲学だったら時間の流れによって、大陸合理論→イギリス経験論→
ドイツ観念論と言う風に、前者の欠点を是正・否定しながら変化する訳だけど、
数学にも新たな式が加えられることはあるにしても、数式によって
証明されている、例えば1+1=2と言うものは永遠に変わらない。
不変でしょう。だから、数学と言う学問は歴史的に変遷はするが
根本的なルールは普遍なわけだね。ところがこの普遍の部分が
恣意的になっているとすれば、これは、数学自体の意味が大きく変
わらざるを得ない事になるのではないかと思う訳だよ。


136 :考える名無しさん:2008/11/16(日) 10:35:02 0
この辺の事がクワス算によって明らかになったと言う事でしょう。
例えば、角度を変えてみると、この問題はウィットゲンシュタイン
のゲーム論にも見られるんだけど、つまり、言語記号はそれ自身で
完結する意味を表現できるのか?と言う問題にもなるわけで。
つまり、分析系の言語学(イギリス経験主義も同様)この様に言語表現
が、スピーカー(話者)なしに、意味として完結できるかと言う
定義を躍起になってやったわけで、ウィットゲンシュタイン
彼の前期と言われる書物「論考」では、その可能性を突き詰めたが、
後期と言われる書物「探究」では、ゲーム論として、スピーカー
による意味の多様性を認めるようになる。つまり、簡単に言うと
言語はコンテクスト(背景・シチュエーション)によって、
多様に理解されると言う事になったわけだね。
ここの点が、クワス算の言いたいことと一致するわけで。
ここに至って、数学の意味するところは、コンテクストに由来するんでは
ないかと言う事になるのです。


137 :考える名無しさん:2008/11/16(日) 10:46:29 0
そこで、これはビッグバンの問題とも関連するのですが、ビッグバン以前が
永遠に続くとすれば、因果的に捉える物理学は、ビッグバン以前に
原因を見出す必要がある。ところが永遠につつくとすれば
第一原因(神)は永遠に見出せない。すると、無限の連鎖には
無限後退的に分らないものが見出せる。よって、物理学は不確定な
予測に過ぎなくなると言う事になる。
そこで、理系批判ではありませんが、全ての学問は、永遠に問えない点が
少なくとも一つあり、その問いに蓋をする必要がある。
それが、理系では「公理」であり、文系=哲学では「原抑圧」
と言われるもので、それが正しいかを問えないものであり、
問う事は自己言及性に陥る。つまり、正しいとも正しくないとも
言えないと言う事でしょうね。
この様な状況を前提にして、局所論(あくまで全体を見渡せない視点)
存在論的観測(自分の立つ位置からの観測点)と言う
問題意識が浮上するのでしょうね。


138 :考える名無しさん:2008/11/16(日) 10:58:10 0
そう言う意味では、局所論や存在論的観測と言うのは、
絶対真理の視点の消滅後、絶対視点ではない局所の「私」である
恣意的な欲望主体としての「私」から、
恣意的な既存の学問を通して、観察し、理論化を進め、
その証明は現実世界に無矛盾なく適応できるかと言うチェック
を受けながら、幾度となく訂正できるのだと言う、ポパー
反証可能性としてあると言う事。また、よって、絶対真理の探究
ではなく、あくまで仮説として、人間=欲望にとっての有用性として
の意味しかないのだと言う事でしょう。


139 :考える名無しさん:2008/11/16(日) 11:00:38 0
イギリス経験論ではなく論理実証主義ね。
つまり、ラッセル・ウイットゲンシュタインの。

長い。


135〜137については後述の140と同意見ですね。
私は最後の138がポイントだと思ってます。
簡単に言うと、テーゼ、アンチテーゼからシンテーゼを生み出せるのは
「私」である人間(厳密には生物)だけだという考え方です。
138でポパーを持ち出しているのは、逆に混乱を招くと思います。

140 :考える名無しさん:2008/11/16(日) 12:35:28 0
なんか、ペギオの本の要約を読んでるみたいだ。本人ですか?w


>>135
> ところがこの普遍の部分が
> 恣意的になっているとすれば、これは、数学自体の意味が大きく変
> わらざるを得ない事になるのではないかと思う訳だよ。


じゃなくてね。ゲーデルヒルベルトが、意味を大きく変えたのよ。アプリオリなもの(公理と推論規則)
を選択する恣意性を許容した。どの公理を採用するかは使う人が選択していい事になった。その代わり、
公理からの演繹に恣意性や文脈依存性が入る余地を極力排除した。
その結果、それまでの数学で示されたものは唯一絶対の真理ではなく、数ある真理のうちの一つになった。
再三言及してる、数学の再整理とはそういうこと。


その観点からすると、局所論って何よ?って気になるけどね。そういう立場をとる数学者、論理学者にして
みれば、私が全体であり、私が神だよ。(ま、少数派ですけどね。そんな原理主義者は)


それでも、数学自身が一種の言語とみなすことができるので、確かに>>136のような言語学的問題は残る。
クワス算がその問題の言及に成功しているとは思えないけど、まぁ原典あたってないので保留する。
ただ、全てを排除しきれていないにしろ、文脈依存性を極力小さくする事には成功しているように思う。


で結局、局所論って何なの?
局所論の問題意識が単に>>120のようなものであるんだとしたら、それはなんつーか、ゼノンのパラ
ドックスの単なる言い換えにしか思えないけど。

仮に「公理性を恣意的に決めることが問題」と思っている
ペギオ信者がいたら、私もその人に反論したいですね。
多分違うんですよ、本当に大切なことは。


現時点で、これ以上のネタはなさそうですね。
まがりなりにも、ここまでの議論がなされる2chって素晴らしい。
今後やらなければならないのは

  • 檜山さんが示唆している、ペギオさんの圏論のミスを一通り修正
  • 圏論を使った議論に論理の飛躍があるかチェック
  • 飛躍がなかった場合、結局ペギオさんは何を言いたいのか

ということの整理ですね。最初の作業が一番大変そう。