論理とは体系があって初めて成り立つのだが・・・

世間一般の人の”難解”な現象に対しどのように”納得”するか

について、先日相関と関係との怪しいつながりを取り上げましたが
次に、「論理」について語りたいと思います。


とはいっても、前に述べたように、基本的には藤原正彦国家の品格 (新潮新書)に書いてあることを追認するだけです。
ただ、国家の品格ではどうしても武士道の奨励がクローズアップされてしまっており
2章に書かれている「論理の限界」のところは、軽く流されているか、もしくは誤解されているように見受けられます。


藤原正彦が指摘する「論理の限界」とは

  • 論理とはそれが基づく体系が十分に吟味されたものでなければ有効ではない

ということでいいと思います。
簡単にパラドックスが見出されてしまう体系では、その枠組みで論理を語ってもなんら意味を持ちません。
(矛盾を含む体系ではどんな命題でも導くことが可能。wikipedia矛盾を参照
そして、価値体系は、簡単に矛盾(ヘーゲルのいう矛盾)を内包し得るので
政治家や官僚、思想家などがいかにもっともらしく「論理」を振りかざしてものを語っても、その「論理」は牙の抜かれた狼です。


しかし、藤原正彦は、「AだからB」という論理を振りかざされると人間はそれがもっともであるかのように錯覚してしまうことを指摘しています。
牙が抜かれていようが狼は狼。ヒトは論理の前に本能的にひれ伏してしまう、というわけです。


小生は、この問題はもう少し注目されてもいいのではないかと思っております。
日本人の思想家、社会学者たちに足りないのは、自らの論理の元にある「体系」に十分に目を向けていない点です。
そして、その人たちの意見を聞き、自らの糧としている我々もまた、その体系に対してもっと真摯に考える必要があると思います。
価値体系においては論理が無駄、なんていう短絡的なことを言うつもりはありません。
ただ、今の日本の思想において、従っている体系と用いられている論理との間には明らかに乖離があり、実りのある議論ができているとは思えません。
少なくとも学問の世界に携わっている人は,まず地に足を付けて
基づくべき公理体系をしっかり把握する作業から始めて欲しいものです(あまり期待できませんが)。