認知的不協和理論について思ったことを整理

心理学の世界には認知的不協和という概念があります。
で、これって結構いい線ついている概念だな、と思っていた訳です。
そうしたら、ポスト構造主義を謳った談話分析の本の中で
「認知的不協和の是正という法則も社会的文脈の中で与えられた偶発的なものに過ぎない」(大意)
という主張が。


この主張の評価って結構難しいですよね。
直感的には
正しい側面もあるし認知的不協和理論を正しく捉えていない側面もある
という印象。
そこで、Wikipediaによる説明をみてみることにします。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%8D%E7%9F%A5%E7%9A%84%E4%B8%8D%E5%8D%94%E5%92%8C


認知的不協和の仮説(フェスティンガー)
* 不協和の存在はその不協和を低減させるためになんらかの圧力を起こす。
* 不協和を低減させる圧力の強弱は、不協和の大きさの関数である。

とのこと。で、これ以上の情報を追う気はとりあえずはないのですが
これに関連して比較的妥当だろうと思われる推論に

  • 実際に生理的な反応として、認知において一定の条件を満たすと脳内でなんらかの現象が発生する
  • ただし、その条件とは認知的不協和理論で一般に考えてられているほど単純ではない

ということがあるかと。


上の2つについて、まとめて簡単に言ってしまえば
ある時期から死ぬまで葛藤を抱えたままそれを解消せずに過ごす人
は原理上あり得ない、ということを主張する人はいないと思いますが
そういう人の脳内では、葛藤の原因となることを思い起こしたとき
常に同程度の圧力を感じているかというと、そういう訳ではないと思います。
そして、圧力が弱まっているケースでは、必ず何らかの不協和の緩和が行われているのか
と考えたとき、その答えはそう明快ではないでしょう。


明快なように思えてしまう人は
おそらく「論理的に考える」ということを当たり前のことのように思っている人なのだと思います。
人間、ほとんどの人が平気で自己矛盾を抱えて生きている訳で
その矛盾に気づく手段が論理な訳ですが、認知的不協和でいう「圧力」に相当する生理現象が
論理の存在を前提としているとはあまり思えないんですよね。
生命機構に論理矛盾を判定する機能がある...あったらそれはそれで面白いですが、どうだろう、と。
そうなると、なら「不協和」ってなんだ?となるわけです、小生の中では。
少なくとも「不協和」についてもう少し広く捉える必要があるかと。


まあ、現時点ではこんなもんで。