政治は片手間で考えるものである

「ワイドショーなどの似非ジャーナリズムに踊らされる大衆」
と言われているものをどう捉えたらいいのか、ということを悶々と考えている際に
ふと思ったこと。
政治とは、日常の生活をうまく進めるための潤滑油みたいなもので
国民全員が朝晩時間を費やして潤滑油の善し悪しを議論するのは効率的とは言えない。
そこで、政治家という潤滑油の専門家を配して、潤滑油の質や分量を決めてもらっている
というのが間接民主主義。


ただ、最近はどうも潤滑油の質が悪い。巨大化、複雑化したシステムの歯車に対し
潤滑油がうまく機能していないように見える。
政治家の腕に問題がある?いや、そもそも潤滑油で改善できるレベルなんて
限られているんじゃないか、などと侃々諤々の議論が一部で巻き起こっています。
とはいえ、やっぱり潤滑油は潤滑油。多くの人々にとって
そんな一生懸命考えたって仕方ないものなのでしょう。


というわけで、というか「というわけで」というわけではなく、唐突に結論を出すならば
国民が政治について一生懸命考えないことを嘆くのではなく
片手間で考える中で賢明な見識、結論を得るには、どのような枠組みが必要か
ということを考えることこそが重要なのかもしれない、とふと思いました。
誰だか忘れましたが、ある直接民主制論者は
政治家は、国民の代わりに政治を司るのではなく
国民が政治を考える手助けをする存在であるべきだと主張してますね。
潤滑油について考えるための潤滑油、すなわちメタ潤滑油になれと。
なんだか、よくわからなくなってきましたが、そういうことで。