「みられる」は客観的なニュアンスを醸し出せる主観的表現

http://d.hatena.ne.jp/irose/20041215
にて
共同通信が『警視庁は、TBS側が意図的に発言内容を歪曲(わいきょく)、
ねつ造した可能性は低いが、結果的に発言を誤って伝えた過失はあったと判断しているとみられる。』
などともっともらしく書いているが
『〜とみられる』を受動態で能動態の『〜とみる』に直すと
その主語は正にその記事を書いている記者じゃないか。
結局、主観的な判断を書いているだけだろ(大意)」
という意見を拝読しました。


細かいところに突っ込みをいれると、「〜とみられる」は受身ではなく自発ではないかと思いますが
基本的にはごもっとも!と言いたくなる主張です。
客観的な事実を報道する記事と、記者の判断・態度を示す社説とをきちんを分別し
情報の信頼性を高めることは、ジャーナリズムの課せられた責務だと思います。
しかし、日本のマスメディアはまるっきり逆の
いかに受け手の心象を操作するか、ということに粉骨砕身努力しているのが実態ですよね。
流石に戦前のイエロー・ジャーナリズムによる教訓を経て
多少世間のメディア・リテラシーは高まってきましたが
マスメディアは、その卓越した表現力でうまく推測、価値判断を交える”腕”を持っているので
まだまだうまく刷り込まれてしまう機会は多いといわざるを得ません。


で、客観性と、新聞で用いられている具体的な表現術との関わりに触れている本としては

があります。


この本で展開されている議論は多種多様なのですが
新聞記事がいかに巧みに客観性を持たせたように見せかけて
主観的な意見を織り交ぜているか、または、心象を操作しようと試みているか
という点についても、いくつか具体的な文章技術が示されています。
「〜とみられる」のような表現はその最たるものといえるでしょう。


なお、このような表現は、過去の日記でも触れたモダリティという言語概念に属します。
日本語は、非常に多彩なモダリティ表現を備えており
他の言語にはない、豊かな心的描写を可能にしているのですが
それが同時にマスメディアの心象操作に役立っている、というのは皮肉ですね。