統計がやけに蔑まれている件

というタイトルで、成城トランスカレッジさんのエントリーをネタに一筆書こうかな、と思っていたところ

※例が例だけに、あまりいい「実践例」にはならなかったなぁ…。

※追記。というかそもそも「統計」じゃないね、これ。

との追記が。ちょっと梯子を外されてしまった感がありますが
(そもそも、誰も昇ってくれなんて頼んでない、ということは言わない約束で)
この件は、このエントリーに出会う前から常々思っていたことでもあるので書いてしまいます。


統計でウソをつく法―数式を使わない統計学入門 (ブルーバックス)」やリサーチ・リテラシーのすすめ 「社会調査」のウソ (文春新書)などの本によって
・母集団および標本を決定する手続きの重要性
・調査結果に偏りを生まないアンケートを作成する難しさ
・統計で検定している仮説を正確に理解することの大切さ
など、社会調査を見る上での注意点が一定数の人に浸透しつつあることは非常にいいことだと思います。
ただ、それと同時に「統計なんてアテにならない」「統計なぞまやかしだ」といった
統計そのものに対するネガティブな意見がちらほら見えるのは、非常に気になります。


上記に挙げたポイントをきちんと評価できるように、調査者が情報をきちんと公開さえしてくれれば
統計でウソをつくことは難しい、というよりも無理です。
にもかかわらず、まやかしを含む社会調査が多々見られるのは
統計に問題があるのではなく、「社会調査」というものが、社会現象を対象にしていることに原因があると思います。


社会現象に関する調査では、アナロジーを駆使して仮説を書くことで、もっともらしいけど実は曖昧である、ということが往々にしてあり
読み手がそれを看破するのは結構難しかったりします。
はっきりいって、社会学系学会誌にある投稿論文の中にも、仮説を曖昧にすることで
統計結果を曲解しているものをちらほら見かけます。


問題は、統計ではなく曖昧な仮説を許容してしまう社会理論にある、と小生は言いたい。
統計は確率論に基礎を置き、きちんとした公理系に基づいた理論であり、統計自身にはまったく罪はないということを理解して欲しいのです。


なお、上記のポイントに関わる情報をさらけ出している林先生の調査はある意味健全かな、と。
・母集団が曖昧、かつ無作為抽出をする気無し(ただし、これは学術論文でもよく見られます)
・アンケートに偏りを避けるような配慮がまったくなされていない
・検定すべき仮説がアンケートから読み取れず、そもそも統計的検定をしていない
駄目だということをはっきりと示している、この潔さには敬意を表したいです、はい。